『「無」と「有」』

「無」から「有」は生まれないと言われます。

この世がどうして生まれたかと言う問いに対して、神様が創られたとするのが信仰者の考え方なのですが、その神様はどうやって出来たのか、神様の始まりは問題とされないのかという無神論者の反論があったりします。

西欧の宗教学では、神様とは「有って有り続ける者」と定義されています。物質、生命を問わず、他の存在は後から出来たとしても、神様は最初からあって、永久に有り続ける者という訳です。

妹が私のプリンが無くなった。お兄ちゃんが食べたと泣いた時、プリンは元の「場所」からなくなってお兄ちゃんの胃袋に「移動」しただけで消えてしまった訳ではありません。更にお兄ちゃんの胃袋で消化されて、栄養源とウンチに分離され別の形に「変化」するだけで、これも消滅した訳ではありません。プリンと言う「形」が無くなっただけです。プリンそのものも砂糖や小麦粉という原材料から作られた「形」に過ぎません。無かった「形」が創造されて分解され、再び「形」を失うだけですね。

哲学においては「無い」ものを無いと証明することは出来ないと言われます。

これは「悪魔の証明」とも言われたりしますが、実際「無い」というのはその「場所」にないか、その「形」が変形して元の形が崩れただけではないかと思われ、これは「無」から「有」は生まれず、同時に「有」は「無」になれないことを意味しているのではないかと思われるのです。

となると、神様が何もない所から手品のようにこの世を創ったとする西欧の創世紀と違い、神の身体と言われる元々あった場所、つまり「泥海」として語られる「紋型ない場所」から秩序ある宇宙の「形」が創られ、「どじょう」や「うお」と「み」等で例えられる、これも神の一部である「原素材」から生物、或いは人間という「形」が創られたとされる本教の教えの方が、より合理的に思えるのです。

蛇足乍ら、宇宙の生成には、まず「形」を創り、発展・変化(進化)させようという意志(意識)及び力(エネルギー)が必要であり、次に「場」及び「素材」が有ることが前提だろうと思われます。
現代物理学で宇宙の始まりとされるビッグバンにおいても、その中に「意志(力)・場・素材」が内包されていたはずです。そしてその「意志」を信仰者は神ともサムシンググレートとも呼び、無神論者はそれを単に「自然」と言う言葉で表し、生成の過程も「偶然」という言葉で片づけてしまうのでしょう。

更なる蛇足ですが、神の身体として宇宙を捉えるならば、その何億光年とも言われる広大な宇宙空間も神にとって自分の庭程度の意味しか持たないでしょう。人間の物差しで考えること自体が滑稽な事かも知れません。

時間の概念もそうでしょう。果たして神にとっての「時間」とはどんなものでしょう。人間にとっては無窮と思われる悠久の時間も、神にとっては瞬時かも知れず、瞬時と思われるビッグバンの現象も、神にとってはスローモーションのような動きであるかも知れません。ビッグバンの時間が0ならこの世は成立しないでしょうが、限りなく0に近いとしても神にとっては十分な時間なのだろうと思えます。

ついでながら、人間がこの世界と対峙する時に明らかに目視できるのは、空間と物が動いている速さでしょう。時間などと言うものは目視できません。
我々は物体が動いた距離を時間で割って速さを求めるのですが、実は逆で距離を速さで割ることで時間の概念を生み出し、この世を理解する物差しにしたと言えるかも知れませんね。

その物差しの基準として、太陽が昇り、沈み、また昇る。このサイクルを一日とし、それを24で割って一時間という単位を作り、更に細分化していくのですが、基本は日の出(日の入り)の回数を数えることが時間の把握の原点なのでしょう。それを可視化する装置として日時計、水時計、更に振り子時計が作られていったのでしょう。振り子時計も振り子の回数が歯車に伝えられる装置ですね。

この時計の発明によって時間が見えるかのように人間が思っている訳ですが、創造主を想定した場合、時間の概念を超越した存在と見なすべきかも知れません。そうなると「刻限」や『古記』で述べられている時刻年限はどう捉えるべきでしょうか? 

それは人間の理解力に寄り添ってお示し下されたものと解釈するしかなさそうです。そして或いは創造主にとっては、過去も未来もその同じ掌にあり、「刻限」も只「今」という位置付けなのかも知れません》

このコラムは、毎月発行の天理教宮和分教会月報「宮和だより」からの抜粋です。
掲載文:2026年2月1日発行「宮和だより」から
執筆者:二宮哲英

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