髙知大教会につながる方へ

髙知大教会初代会長 島村菊太郎

明治24年9月16日、設立の理のお許しを戴いた天理教髙知分教会。その道はたった一人の男の心定めからはじまりました。
ここでは、島村菊太郎・髙知大教会初代会長の足跡をご紹介いたします。

天理教髙知大教会の旧神殿と島村菊太郎 初代会長

 

安政5(1858)年、高知県香美郡久枝村に生まれた島村菊太郎は、苦労する両親の姿を見るにつけ、なんとしてでも島村家の復興をはかりたいと考え、14歳の時に酒造りを志しました。十年の修業のうちに「杜氏」「番頭」の両役を任されるほどの手腕を身につけた菊太郎は、満を持して独立を果たし、高知市内で酒造業を始めました。

ところが、杜氏の腕前を持つ菊太郎がいかなることか2年続けて酒の造り込みに失敗、莫大な借財をつくってしまいます。ますます両親に苦労をかけることとなった菊太郎は、再起を期して商売の都、大阪へと渡ったのでした。

島村家の復興を胸に大阪で海産物の商いを始めた菊太郎でしたが、ほどなく痔瘻(じろう:肛門の周囲が化膿して膿がたまり、激しい痛みと発熱を引き起こす。手術をするしか完治の方法はなく、悪化すれば一命も危うい大病)を患ってしまい、日に日に病状は悪化していきました。同じく大阪に出て来ていた同郷の友人から親神様の話を聞いた菊太郎でしたが、初めて聞く神名に、最初は信じるどころか馬鹿にさえする有様でした。

しかし、一年たっても良くなるどころか悪化の一途をたどる病状に「無い人間、無い世界をお創めくださった月日の親神様と聞いた。この神様に救けてもらえんようなら、ほかに救かる道はないはずじゃ。命がけでおすがりさせてもらおう」と固く心に誓います。明治21年2月、島村菊太郎31歳。髙知大教会の道はここに始まったのです。

その翌月、大阪から二日がかりで初めておぢばに帰った菊太郎は、鮮やかなご守護をお見せいただいたことに感激。親神様の存在を確信します。

痔瘻を鮮やかにご守護いただいた菊太郎は、親神様を信じ、ますます仕事にも精を出していましたが、胸が痛み喀血をする肋膜という病にかかり、またもや伏せることとなってしまいました。病床で、商売のことや島村家の復興のことばかりを考えていたことを神様にお詫び申し上げると、次第に菊太郎は快方へと向かっていきました。
痔瘻、肋膜と、二度にわたって救っていただいた菊太郎は、ますます親神様の教えを求めるようになり、命を救けていただいたご恩報じとして「千人たすけ」の心を定めます。

千人たすけを果たしたのちは、再び大阪に戻って商売を再開すると決めた菊太郎は、生まれ故郷の高知へと戻り、寝食を忘れて人だすけに奔走しました。妻・銀代とともに「恩詰まりは運詰まり」を信条とし、おたすけの御礼など一切受け取らず、極貧の中にも心明るく人だすけの毎日を通りました。

菊太郎の熱心な布教により、盲人が目を開き、足の立たなかった人も立ち上がるといった珍しいおたすけが随所にあがり、ご守護の姿に感銘を受け、のちの髙知大教会の屋台骨を支える人々が次々とお道に引き寄せられていきました。

それらの人々の間から、大勢が集まる場所をとの声が高まり、布教開始からわずか半年、明治22年4月、畳を敷き詰めれば百畳という広さの髙知集談所が完成。天理教の教えの評判はいやが上にも高くなっていきましたが、同時に諸方から反対攻撃の火の手があがってきました。しかし、常に神一条の菊太郎の信仰は、いささかも揺らぐことはありませんでした。

それまで、千人たすけを果たした暁には島村家の復興を目指したいとの思いがあった菊太郎は、周りからいかに集談所長就任を望まれても固辞していたのですが、自身に見せられる度重なる病気、周囲に見せられる事情から神意を悟ります。
明治24年3月、ついに生涯を人だすけをして通る決意を固めた菊太郎は、髙知集談所長に就任。名実ともに髙知の芯と定まったのです。

所長に就任し、熱心に人だすけに励む菊太郎のもとには、連日大勢のたすけを求める人々が訪れ、集談所も手狭となってきました。明治24年8月、菊太郎は集談所の地所拡張と建物の内部改造を一同と協議し、神様のお許し、おさしづを仰ぐべくおぢばに帰りました。

すると、いとも鮮やかなお許しと同時に、まったく思いもかけなかった教会名称の理をお許しいただける旬が到来していること、しかもそれを親神様がお急き込みくだされ「何でも彼でも許さにゃならん」と仰せられている思召のほどをお示しいただいたのです。

青天の霹靂とでも表現するしかない驚きでしたが、それはまた何物にも代えがたい歓びでもありました。事の重大さの中に神様の思召を見失ってはいけないと考えた菊太郎は、教会名称を戴くについての真剣な話し合いを重ねました。一同の心が一つに揃い、早くも8月下旬には名称願い出の願書が整い、菊太郎は二十数名の役員を伴い、海路おぢばに向かいました。

遡ること三年前、千人たすけの心を定め、ただ教祖ひながたを辿る喜びを胸に、人だすけの道に邁進した菊太郎。この白熱のご恩報じの思いはたちまち珍しいご守護となって現れ、教えは燎原に火を放つがごとく、高知県下はもとより遠く県外にも伸び広がりました。さらに、その徹底した真実誠の丹精は大勢の布教師の勇躍を呼び、明治24年9月16日、島村菊太郎を芯として髙知分教会設立という姿をお見せいただいたのです。

教会設立後、参拝する人は日に月にその数を増していきました。髙知集談所の土地が借地であったこともあり、どうでも広い場所へ移転させていただこうとの話から、とんとん拍子に高知城のお堀のすぐ東側(現在の髙知大教会境内地の中央部分)の土地が手に入り、新しい場所への移転にあわせて神殿建築の話がまとまりました。

年が明けて明治25年、神殿建築の着工に勇み立つ髙知分教会でしたが、菊太郎はふしんに並行して、県内はもとより遠く県外にまで教会役員を布教の応援に送り出し、形のふしんとともに心のふしんにも力を注ぎました。

無事ふしんも完成し、明治26年4月3日、髙知分教会開筵式の日がやってきました。四国一と称えられた大神殿に続々と人々が詰めかけ、数えきれないほどの参拝者を背に、朗々と祝詞を奏上していた菊太郎の声がやがて詰まり始めました。菊太郎の胸中にあふれる万感の思いは、そのまま参拝者の心に響き、いつしか満堂に感涙のすすり泣きの声が広がっていきました。

明治21年、奇しき親神様のお手引きにより信仰を始めるや、ご恩報じの道として直ちに布教の荒道に飛び込み、いかなる中も教祖ひながたを見つめ、たすけ一条の上に真実を捧げ尽くした島村菊太郎。その精神は設立から130年経った今に至るまで、連綿と髙知大教会に受け継がれているのです。

もっと詳しく

島村菊太郎物語

本文中の挿絵は、髙知大教会が発刊した劇画「天理教髙知大教会初代会長 島村菊太郎物語」(編:髙知大教会 画:中城健雄)の作中のものです。
島村菊太郎の入信、生い立ちからその晩年までを、全380ページにわたって描き切った信仰劇画の本作では、菊太郎の人物、逸話などがより詳しく描かれています。
道友社発刊の「劇画 教祖物語」を作画された中城健雄先生の力作でもある本書は、髙知大教会にて頒布しております。
詳細は、天理教髙知大教会(088)822-7717までお問い合わせください。