『徳のある人、徳のない人』

お道ではよく「徳のある人、徳のない人」という言い方をします。

徳のある人には、自然に人や物が集まって、賑やかで和気あいあいとした雰囲気になり、特にあくせくしなくても生活に困ることはないといった状況になるのですが、徳のない人は、その逆になると言うのですね。そしてそれがあたかも生まれつきであるかのように言われたりもします。

確かに、愛情あふれるしっかりした家庭で育ち、明るく穏やかな性格の持ち主だったら人も物も寄ってくるでしょうし、恵まれた環境に生まれなかった側からは羨望と嫉妬の目で見られるかも知れません。しかし、与えられた徳と言うのは、それに甘んじていると容易に失われていくものではないでしょうか。そのような例は世の中に沢山あるように思えます。

一方で、世の聖人と言われた方の多くが、決して恵まれた家庭や境遇で生まれ、何不自由なく育ったというわけではありません。
イエスキリストは私生児として生まれ、世間から白い目で見られてきました。天理教の教祖においてもその道すがらは、世間的に見るならば不幸や辛酸の連続だったと言えるでしょうし、少なくとも徳があるなどと思われる境遇ではなかったでしょう。その中で人が集まり、慕われ、何不自由ない境地に至る道を示されたのですね。

よく自分は徳がないから失敗するとか、良い相手に恵まれないとか自虐的に言ったりする人がいますが、本当の徳と言うものは、神様や他人からポンと渡されるものではなく、自分の日頃の通り方、振る舞いの中から段々と培われていくものではないかと思えるのです。

このコラムは、毎月発行の天理教宮和分教会月報「宮和だより」からの抜粋です。
掲載文:2023年4月1日発行「宮和だより」から
執筆者:二宮哲英

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