『道』・・・The truth

本教では「道」と言う言葉がよく使われます。
言うまでもなく、元々は人や車が実際に通る場所のことだったのですが、それが人生における人の道、つまり人が守るべき規範の様に使われ出したのは、やはり古代中国思想であり宗教であった儒教や道教の影響でしょう。

儒教の聖典である論語には、「道」と言う言葉が沢山出てきますが、その中に
 「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」
という章句があります。
もし真実の道を教えて貰ったなら、例えその日のうちに死んでも悔いはないといった意味なのでしょうが、少しひっかかるものを感じました。
 
この論語の英語版では「道」のことを「The truth(真理)」と訳されています。英語の「Road」には地上の道路や道筋といった意味しかないという事情もありますが、成程なと思わされました。

と言いますのは、西洋思想の根柢にはキリスト教があり、更にキリスト教神学の基礎となっているのは古代ギリシャ哲学だと言われておりまして、その哲学において人の究極の目的は真理を悟ることとされていますから、論語もそのような解釈をされたのだと思えたのです。
 
先に私がひっかかると申しましたのは、日本語で「道」と言う場合、それは真理、又は目的そのものではなく、そこに至る道筋あるいは作法・修練だったりする訳で、そこから武道や華道、茶道という流儀が生まれており、論語で説かれる「道」も、
人としての生き方と捉えられています。その為、本教的に言いましても、真実の道を教えて貰ったら死んでもいいではなく、寧ろ今すぐ実行しなければならない、今が始まりだという事になりそうだからです。つまりは「知る」こと以上に「実行する」ことが重要なのだと教えられていると思うのです。
実際、人が通らねば道とは言えないでしょうし、「続いてこそ道」というお言葉もありますからね。

本教的に言えば、神様が人類の親であり、人が陽気ぐらしをし、神人共に楽しみたいとこの世を創られたと言うのがTruth(真理)であり、その為の実践行程が「道」なのでしょう。
その行程の模範として「ひながた」が示されているということでしょうか。

このコラムは、毎月発行の天理教宮和分教会月報「宮和だより」からの抜粋です。
掲載文:2024年11月1日発行「宮和だより」から
執筆者:二宮哲英

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