世界だすけのようぼくとして

髙邁分教会ようぼく 清水厳一

※この原稿は、髙知大教会が毎月発行している「月報たちばな」立教184年6月号に掲載された「海外部報」の原文です。限られた誌面ではご紹介できなかった文章、写真を是非お読みください。

関西国際空港午前10時発のキャッセイパシフィック航空香港空港行きに搭乗して、一度香港空港で乗換を行い、現地時刻の午後5時30分頃にプノンペン空港に到着した。入国手続きや預けた荷物を受け取り、空港から出て初めてカンボジアの首都プノンペンに足を踏み入れたのは、現地時刻で午後6時を過ぎていた。カンボジアと日本の時差は2時間あり、日本時刻は午後8時を過ぎていて、関西国際空港を離陸してから10時間以上も経過している。今回は初めて一人での海外渡航のうえ、右も左も分からない香港空港での乗換で、肉体的にも精神的にも疲労困憊で、無事に到着した事を安堵したのを今も記憶している。
安堵から束の間に、カンボジアの洗礼を浴びた。それは東南アジアに位置するため、午後6時を過ぎていても気温は30度を超え、真冬の日本から来た私にとっては体感温度と湿度を数字以上に感じられ、下水道が整備されていないカンボジアの空気は、ドブ臭く鼻を刺す様な悪臭に襲われた。
現地の通訳が空港へ迎えに来てくれていて、車に乗り込み宿泊先のホテルへ向かう中、私が目の当たりにした首都プノンペンは、街灯が薄暗くどんよりとした中に、ひと際目を引く鮮やかなネオンのお店が点々と立ち並び、そして車が渋滞で止まると赤ちゃんを抱きながら物乞いをする子供や、花や食料などを買って欲しいと近づいてくる子供の姿に衝撃を受けた。

来年の1月で、初めてカンボジアを訪れてから約4年が経とうとしている。カンボジアの名前を聞いて連想するのは、世界遺産のアンコールワット遺跡を思い浮かべる人は少なくないと思う。しかし、カンボジアにはポルポトが率いるクメールルージュと言われる政党に、200万人もの国民が大虐殺をされた悲しい内戦の歴史がある。その暗黒の悲しい内戦時代が終焉を迎えたのは、1990年代に入ってから。その後1996年に、日本はPKOで自衛隊をカンボジアのタケオ地方に派遣をした事は、記憶に新しいと思う。
現在のカンボジアの平均年齢は、24~25歳と非常に若い国で、東南アジアの貧困国である。経済で言えば、中国資本が多く入り込み、建設ラッシュにより市街地開発が凄まじいスピードで行われている一面もある。市街地開発が進むにつれて地価は跳ね上がり、国民の所得は増え、豊かな暮らしをしている富裕層も出てきている。しかしそれは首都プノンペンに暮らす一部の国民だけであり、多くの国民の平均月収は日本円で2万から3万円までで貧しい暮らしをしている。また、都市部と田舎の農村部では、格差はもっと大きくなる。世界中を襲うコロナ禍においても、この格差はカンボジア国内でも広がるばかりである。

なぜ私が、何の縁も無いカンボジアに引き寄せらるように来たかというと、天理高校の同級生である谷道陽氏からの一本の電話がきっかけであった。
まずは、私のお道の信仰からお話をします。

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