以前にも触れた昨年亡くなった知人の話ですが、彼は余命宣告を受けたあと友人にそのことを伝え、感謝しつつ、残りの人生を楽しみたいと語っていました。自分の名前の一字を取った「道悦」という戒名も早々と披露していました。
『道悦=道を悦ぶ』
と言うのはお道にも通ずる生き方で、表面的には達観した様に明るく振る舞っていた彼ですが、心の内は、肉体的な痛みと不安・孤独に苛まれていたのでしょう。その捌け口として実姉に長電話をしたり、長文のメールを送ったりして気を紛らわしていたようです。その対応で姉君は体調を崩し、寝込んでしまったそうですが。
彼の心が揺れ動いていたその頃の事でしょう。私に
「今、揺るぎない自己というものを考えているのですが、どう思われますか」
というメールが来ました。私は
「揺るぎない自己などというものは多分無い。あるとすれば揺るぎない信念じゃなかろうか」
と答えました。
実際、揺るぎない自己に見えることがあるとしたら、それは単に強情か鈍感さによるものじゃないかと思えるのです。すると
「揺るぎない信念はどうしたら得られるんでしょうか」
と重ねて聞かれまして
「それは自身の生き方、或いは信仰における信念であって、人生において悩み苦しむ中で体得されるものじゃなかろうか」
と返しました。勿論、私がそれをしっかり身につけているという訳ではありません。
ただ強い信念や矜持を保つためには体力も必要でしょう。彼に限らず、体力が衰えたり体調が優れなかったりすると、気力も衰え、気弱になるのでしょう。そもそも揺るぎない信念というものも簡単に備わるものではないでしょうから。
浄土真宗の開祖・親鸞上人の弟子であった唯円が、ある時
「毎日毎日念仏を唱えているのですが、どうしても極楽浄土に行けそうな気がしないのです」
と師に悩みを打ち明けます。すると師は
「実は私もそうなのだ。いくら念仏を唱えても煩悩が消えそうもない。しかし、だからこそ一層、念仏を唱えなければならないと思っている」
と答えたそうです。
親鸞上人は、師である法然上人に
「たとえ騙されたとしても構わない」
と信じ切り、念仏三昧の一生を送ったのですが、聖人と称されたほどの人でも道中迷う日々があったくらいですから、我々凡人が時に心が折れそうになったりいずんだりするのは至極当然のことなのでしょう。
学ぶべきは、それでも尚、道を追い続ける姿勢と覚悟なのでしょう。

このコラムは、毎月発行の天理教宮和分教会月報「宮和だより」からの抜粋です。
掲載文:2024年4月1日発行「宮和だより」から
執筆者:二宮哲英